COLUMN特集

2019.03.25バイク産業 浜松バイク産業、創世記


1948年当時の六間道路の航空写真:現在の中区下池川町付近(高須氏提供)

浜松の基幹産業の一つであるバイク産業。

昭和初期、織機を製作していた遠州織機がバイクの製作を開始したのがその始まりと言われています。しかし、太平洋戦争になり、開発は中止されてしまいます。その後、1946(昭和21)年、本田宗一郎氏が軍隊で使用していた無線機の発電用エンジンを改良し自転車に取り付け、試走に成功したことで、産業として本格的に動き出します。1949(昭和24)年には本格的なバイク「ドリーム号」が完成。さらに、1953(昭和28)年には鈴木織機が「ダイヤモンドフリー」を発売。その後、全国にバイクメーカーが乱立。浜松でも40社近いバイクメーカーが誕生しました。

数あるメーカーの中で異彩を放っていたのが、高いデザイン性とシャフト(棒)ドライブ構造を採り入れた「ライラック」を開発する丸正自動車製造株式会社でした。今回は、同社でエンジンなどの設計者として活躍していた高須修さん、同じく、試走ドライバーであった伊藤寧歳さん、バイクの製造に携わっていた清水伸泰さんを訪ね、戦後復興期の浜松でバイク産業が大きく成長していく時代の空気感や熱気などをお聞きしました。



▲元・丸正自動車本社前の六間道路にて
 左から高須修さん、伊藤寧歳さん、清水伸泰さん



SOU:伊藤さんと清水さんは同期で、丸正自動車製造株式会社(以下、丸正)が大きく成長していった1954(昭和29)年に入社されたとお聞きました。当時の会社はどのような雰囲気だったんですか?

清水:中卒から大卒まで55人ほどが同期入社しました。デザイン性の高いベビーライラックJF型が発表され注目を集めていました。翌年には第1回全日本オートバイ耐久ロードレース(通称、浅間高原レース)250ccクラスに出場するんですが、エンジンの動力をチェーンで伝える一般的なバイクは、浅間山の火山灰がチェーンに絡みついて切れてしまうんですね。でも、シャフト構造のライラックは火山灰に強く、合わせて力量あるライダーに恵まれ、故障もなく完走することができ、見事、優勝を飾ることができました。優勝した影響は大きく、バイクが1日に250台も売れるようになりました。


▲当時の清水伸泰さん(本人提供)


SOU:当時、どのようなお仕事をされていたんですか?

伊藤:入社した当時はベビーライラックのハンドル周り、エンジンなどを組み立てていました。その後は開発に異動して、試作車のテストライダーとして耐久、性能テストを担当していました。試作機に乗って静岡の由比までの100kmを往復したり、1周60kmある浜名湖を走ったりしていました。当時の道路は舗装されていないから、ホコリまみれで真っ黒になりました。テストを繰り返し、高須さんたちがいる開発に、フィードバックしていました。
 
SOU:丸正があった六間道路でもテスト走行をしていたと聞きました。

高須:戦時中、和地山には軍事施設があって、施設の整備に関連する大型物資を輸送するために六間道路は舗装されていました。六間道路は直線やヘアピンカーブ、急な坂道などがあり、スピードを測定したりブレーキテストをしたりするのにもってこいの場所だったんです。当時は今よりも交通量が少なかったから、何台ものバイクメーカーがここで競うようにテスト走行をしていました。六間道路沿いには丸正自動車製造のほかに、本田技研工業や中央興業、ロケット商会の4つのメーカーや下請け加工の関連工場、多くの飲食店もあって、にぎやかな場所でしたよ。


▲高須 修さん


 

知識をシェアし、業界全体で成長する


SOU:昭和30年代、浜松には40社近いバイクメーカーがあったそうですね。

伊藤:全国には260社ほどあったんじゃないかなぁ。名古屋もメーカーが多くて、トヨモータースやオートビットとかあったけど、なくなっちゃたね。
 
清水:従業員が100人単位でいたのは丸正かホンダぐらいで、あとは、数名程度の家族経営的なメーカーが多かったですね。丸正やホンダはエンジンやフレームなどを自社で作っていたけれど、他社は完成したエンジンやパーツを仕入れて、バイクに組み立てて販売していたところも少なくなかったです。

SOU:自社でエンジンを開発するとなると、いろいろとご苦労もあったかと思います。
 
高須:昔は当然インターネットがなかったから、資料探しには苦労しました。図書館に行ったり、東京出張の際に、専門書が揃った書店に足を運んでノートに書き写したりしました。あと、他社メーカーの技術者とよく意見交換をしていましたね。狭い街だったから、飲み屋で一緒になったり、バイクのテスト走行の時に休憩する場所が一緒だったりしたからね。
 
SOU:コンプライアンスが厳しい今では、とても考えられないですね。
 
高須:当時は企業秘密という概念があまりなかったですから(笑)。その情報ならあの論文に載っているとか、自分たちの研究内容を教え合ったりするのは日常的でした。本田宗一郎さんからもお会いする度に、いろいろとアドバイスをいただきました。
 
SOU:業界全体でバイク産業を盛り上げようという気運があったんでしょうね。
 
伊藤:朝から晩まで、本当によく働きました。でも、毎月誕生会があって社長がごちそうに連れてってくれました。まだ、会社に家族的な雰囲気が残っていた時代でしたね。


▲伊藤寧歳さん

高須:休日出勤して予定の仕事が早く終了すると、会社の先輩と一緒に佐鳴湖へ魚採りに行ったりしました。会社も楽しく、人にも恵まれました。大きな夢を実現しようとする想いにあふれ、夢を形にしようという気力が毎日湧き出してきました。バイクの仕事に携われることが、何よりもうれしかったですから。

 

遠州の技術者がバイク産業を支える


SOU:昭和30年代初期というと、まだ車もなく、バイクも珍しい時代だったかと思います。当時の人にとってバイクはどのような存在だったんでしょうか?
 
伊藤:やっぱり、憧れの存在だったと思います。試走中、道ばたで休憩していると、「バイクだー」って言いながら、子どもも大人も珍しそうに周りに集まってきました。ライラックにはチェーンがないから、どうやって走るんだとよく聞かれました。


▲清水伸泰さん

清水:当時の僕らの月給が月5,000円くらい。残業しても8,000円ほど。当時ライラックは1台16万円ほどしたから、天竜の材木商、別珍やコール天の織物業、お医者さんなどの裕福な人が買っていきました。
 
SOU:バイク産業がこんなにも盛んになった理由は何でしょうか。
 
高須:理由はいくつか考えられるんだけど、社会的な背景が大きかったように思います。まず、それまで統制販売だったガソリンの統制が解除され自由販売になったこと。さらに小排気量のバイクに限って、簡単な実地走行の試験で免許が取れたことでしょうか。役所や農協の広場で講習を受けたら、すぐに免許がもらえたんですね。これによって自転車代わりにオートバイを買う人も出てきました。あと、今と比べて道路交通法が整備されておらず、スピードなども大らかな時代だったでしたから。
 
SOU:燃料のガソリン、免許の取得方法など、一般の人でもバイクを買いやすい環境が整備されていった訳ですね。技術的な面では何か理由はありますか。
 
清水:戦前から浜松は繊維業が盛んで、織機を作る会社が多くありました。戦後になって、みんな、生活するためには仕事をしなくちゃいけないから、「なんか手伝えることはないか」ってよく売り込みに来ていました。当時、バイクのフレームを作る鋳物工場やメッキおよび塗装など、丸正の下請けは60〜70社ぐらいあって、いろいろと助けてもらいました。
 
高須:向宿のあたりにフレームを作ってくれる職人さんがいて、彼は正式な図面を持って行かなくても、絵を渡すだけで完璧に仕上げてくれる。パイプを曲げるのってすごく難しいんだけれど、その職人さんは抜群にうまい。どうやって作っているのかなと不思議になってこっそりのぞいたら、パイプの中に中田島砂丘の砂を詰めて曲げていたんですね。高い技術力と豊かな経験を持つ技術者が数多く集まっていた都市だったことも、浜松でバイク産業が盛んになった理由の一つだと思います。


▲1953年浜松まつりのパレードに参加。丸正自動車製造本社前にて(高須氏提供)

SOU:連綿と続く技術を引き継ぎながら、浜松のバイク産業が生まれ、発展していった訳ですね。知識をシェアし、ライバルと切磋琢磨することで産業が大きく成長していった時代だったことがよく分かりました。
本日は貴重なお話をありがとうございました。