COLUMN特集

2019.03.31その他 浜松産業の発展に貢献した「報徳の教え」


私財を投げ出し、天竜の山々に植林を行い暴れ天竜を治め、浜松の林業の礎を築いた金原明善翁。
トヨタグループの創設者・豊田佐吉とその父親。さらに、砂糖の製法を開発し、発明王とも、特許王とも呼ばれた鈴木藤三郎など、遠州地方の産業に関わる偉人たちが共通して大切にしていたのが、「報徳の教え」というものでした。
今回は、この教えがどのようなもので、浜松の産業にどう影響を与えたか調べてみました。
 

農村を再興する報徳の教え


「報徳の教え」とは、幕末から明治時代に活躍した二宮金次郎で知られる二宮尊徳が独学で学んだ神道・仏教・儒教などと、農業の実践から編み出した、豊かに生きるための知恵のこと(※)。質素倹約、勤勉貯蓄に励み、社会に奉仕するという教えとともに、荒廃した農村を農業によって立て直す“農村改革”という側面があるのも特徴です。報徳の教えを受けた地域は、全国で600余りあったと言われ、遠州地方では豪農(地主)や商人の間で報徳の教えが広く普及。1847(弘化4)年には、今の浜松市東区下石田町に日本で初めての民間結社「下石田報徳社」(報徳の教えを実践する活動拠点)が設立されました。

(※)出典
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%B1%E5%BE%B3%E6%80%9D%E6%83%B3 

江戸時代後期の浜松藩では百姓一揆が多発するなど、農民たちの暮らしは決して楽なものではありませんでした。下石田も状況は同じで、天竜川の度重なる洪水によって家が流され、田畑は砂利で埋まり、村は疲弊していったそう。石田という地名も、田んぼの中から石がでるエリアだったことに由来しています。農業をすることもままならず人々は困窮。まさに村が破産寸前な状況にあって、村の指導者的立場にあった豪農(地主)が頼ったのは、農村改革を謳う「報徳の教え」でした。
 
報徳の教えが農民に伝えたことは、農業に励むこと、互いに助け合うこと、貯金をすること、村人みんなで道路などの奉仕作業をすること、親孝行すること。どれも人々の暮らしを豊かにし、余裕を作ることが根底にあります。集められた寄付金は、荒れ地の開墾や洪水対策などに使われました。そんな一つひとつの行動が積み重なり、下石田は復興を遂げていきます。田植えや稲刈りなど、稲作は個人よりも集団で協力しながら行う作業です。だからこそ、村人が一丸となって村を再興する報徳の教えは、稲作文化と親和性が高く、農民を中心に受け入れられた理由の一つと言えそうです。
 

社会に投資し、産業を育成


続いて地域経済の面から「報徳の教え」が果たした役割を、静岡文化芸術大学名誉教授であり、元浜松市史編さん執筆委員会副委員長である佐々木崇暉(ささきしゅうき)先生を訪ねました。




SOU:佐々木先生の論文によれば、浜松の近代産業の成り立ちには、特定の個人のがんばりよりも、いくつかのネットワーク(集団)が産業を興したと指摘しています。

佐々木:幕末から明治にかけてのネットワークには血縁と地縁、そして報徳の教えによってつながる3つのネットワークがあり、それぞれがゆるやかに重なっています。報徳の教えを大切にしていた地元の豪農(地主)や豪商が、浜松の産業創出に大きく影響しています。 

SOU:具体的にどのような動きがあったのでしょうか?

佐々木:報徳の教えには「分度」「推譲」という言葉があります。「分度」は身分相応という意味で、人には社会的立場や経済力に応じた分があり、それに応じた振る舞いが求められます。また、貯蓄したお金や米などはすぐに使わずに、子どもや孫、他人や社会のために譲る(無利息貸付)「推譲」という考えです。
 
二宮尊徳の弟子で、後に静岡県会議員や衆議院議員となる岡田良一郎という人物がいました。彼はこの報徳の教えをモデルに、遠州地方で最初の金融機関「資産金貸付所」を設立します。個人や企業の遊休資金を集め、社会で機能する投資資金にすることで、新しい産業を作る狙いがありました。




SOU:そういった資金は、実際にどのように活用されたのでしょうか?

佐々木:職人の起業を支援したり、鉄道や電気といったインフラに共同出資したりと、地域の活性化に役立てられました。また、明治期の浜松三大企業に数えられる日本楽器(今のヤマハ株式会社)、帝国製帽(今のテイボー株式会社)、さらに遠州の繊維産業に大きく貢献した日本形染株式会社などは、報徳の教えを汲む篤志家たちから創業の資金援助を受けていました。彼らは役員としても企業経営に参画し事業をサポートしています。岡田良一郎のユニークな点は、報徳の精神性だけを生かすのではなく、経済とうまく結び付けた点にあり、経済の近代化にも貢献しました。幕末から明治にかけて、浜松が産業都市として大きく成長していく過程で、報徳の教えが果たした役割は大きいと言えます。
 

人を育て、価値を生み出す


明治期の遠州地方に多くの銀行が生まれたことからも、勤勉、倹約、推譲といった報徳の教えは広く浸透していったと言えそうです。1893(明治26)年の記録によれば、日本全国に625あった銀行のうち93行が静岡県にあり、企業数で全国一、資本金の額は東京に次いで第2位。しかも41行が浜松を中心とする遠州地方に集まり、銀行王国・遠州と呼ばれるほどでした。
 
浜松の近代産業勃興期において、他者に投資し、共同体を成長させる「報徳の教え」は、産業をより大きなものへ成長させる“育てる役割”を担っていたと言えそうです。その後、浜松の産業は大きく発展し、ピアノやテレビ、写真のフィルム、軽自動車など、さまざまな“日本初の製品”が生まれていきます。想いでつながる人とのネットワークが浜松産業の原動力だったことは、今を生きる私たちに多くの示唆を与えてくれるのではないでしょうか。