COLUMN特集

2021.02.10バイク産業 マン島TTレースで 日本人唯一の優勝者 伊藤光夫さん

マン島T Tは、1907年からイギリス領マン島で開催されている伝統あるバイクレースで、島内の公道を閉鎖して行われ、危険で過酷なレース(※1)として知られている。
その110年を超える歴史の中で唯一優勝し、日の丸を掲げた人物が浜松にいた。一昨年夏、惜しまれつつも他界された伊藤光夫さん(享年82歳)だ。
1963年マン島TTレース50ccウルトラライトウェイトTTにおいて、スズキRM63を駆り優勝。
日本人として初めて、そして唯一の快挙を成し遂げた。

(※1) サーキットのようにレース専用に作られた道路ではなく一般公道を使用するレースのため、段差や路面の荒れ、コース沿いにすぐ民家や壁があったりと、転倒・接触などのトラブルが 大きな事故に繋がることが多く、過去に240名以上の参加者が亡くなっている。2020年はコロナ禍の影響で中止。2021年の開催も中止が発表された。


優勝を決め、ゴール直後の伊藤光夫さん


50ccというとファミリーバイクのような非力なマシンを想像するが、当時試 行錯誤を重ね、日本のバイク産業のグローバル化のきっかけともなった世界 GPで活躍したマシンは精密機械のような高度な工業製品だった。伊藤さんの 駆ったRM63は、後方排気、サイドバルブ、9速ミッションで11馬力。最高時速は150kmに達した。


 

国産バイク黎明期
バイクに魅せられメーカーへ


竜洋町(現磐田市)でモータースを営む家庭で育った伊藤さん。 日本のモーターリゼーション前夜、当時はまだ珍しかったオー トバイや自動車に幼い頃から触れる機会があった。
浜松で本 田宗一郎氏が製作した、ホンダの二輪車第一号と言える自転 車に無線機用の発電機のエンジンをつけた車両を見て、二輪車への興味が一気に高まり、必然のように1954年17歳でホンダに入社。試作車のテストを行う性能検査グループに勤務。
しかし、当時すでに本社を東京に移し、埼玉にも工場があったホンダでは転勤の可能性があった。
浜松が好きで、この土地で仕事を続けたかった伊藤さんは1956年19歳の時にホンダを退社。浜松に本社を構える鈴木自動車工業に入社した。
 


社員レーサーとして活躍
マン島TTで日本人初の
快挙を成し遂げた 


入社したスズキでは完成車の検査をする部署に配属。そこでバイクを操る腕を見込まれ、レースに参戦するための部署である研究部へ引き抜かれ、社員レーサーとして本格的にレースに参戦するようになった。
浅間火山レースを始め1961年には世界GPに出場。そして、1963年。マン島TTレース50ccウルトラライトウェイトTTクラスで日本人初の優勝を果たした。世界各国のメーカーがしのぎを削る、歴史あるマン島で日本人ライダーが日の丸を掲げることは、当時の日本モーターサイクル界の悲願でもあった。伊藤さんは伝統のマン島TTレースで優勝した唯一無二の日本人となり、今でもその歴史の中で偉大な存在として語られている。



スズキ歴史館に常設されるマン島TT参戦の記録。
1962年、外国人ライダーが乗って、スズキ初のマン島TT優勝を飾ったRM62とマン島政府から寄贈された硬貨とプレートが展示されている。そこにはRM63で駆ける伊藤さんの勇姿が刻まれている。


 

「みっちゃん」の愛称で
誰からも愛された伊藤さん


伊藤さんが配属された研究部はのちに「研究3課」と呼ばれ、国内外のレースに参戦するレース車両を数多く開発し、実績を残していった。研究3課に所属していたメンバーは「研三会」という集まりで今も交流を続けている。
今回、伊藤さんと一緒に数多くのレースを戦ってきた、当時をよく知る4人の方々にお話をお聞きすることができた。
会の中でも朗らかで面倒見のいい伊藤さんは「みっちゃん」の愛称で親しまれ慕われた存在だったそうだ。
レースに参入し始めた頃はまだおおらかな時代で、試作車で浜名湖を周回したり、長い直線のある浜松市内の国道1号線や、当時珍しく舗装道だった六間道路でテスト走行を行った。そしてライバルであるホンダのテストコースを借りたこともあったという。会社は違っても切磋琢磨するライバルであり、より良い国産バイクを作ろうとする「仲間」という意識も多分に持っていた時代だったのだろう。
そして、国内レースから海外レースへの遠征と、常に先進のマシンづくりに取り組む苦楽をともにしてきた絆は、現在も緩むことなく「研三会」の皆さんを結びつけている。



「研三会」の皆さん。右から神谷安則さん、田口義郎さん、永田選さん、伊藤勝平さん。

伊藤さんの先輩で、整備の神様の異名を持つ当時チーフメカニックだった神谷保安則さんは、伊藤さんのマン島TT優勝の知らせを国内で待機中に知ったそうだ。9時間の時差があるマン島から勝利の報告があったのは夜の9時だった。
「あの頃はネットもないし、国際電話だってなかなか繋がらない時代。テレックスで吉報が届いたときはその場にいたみんなで万歳三唱しましたよ。」

車体レイアウト・設計担当だった田口義郎さんは、半年の差で入社した伊藤さんとはいろいろな場面で縁があり、公私ともに交流があった。
「50ccの小さな車体を、日本人としては大柄だったみっちゃんが乗りやすいように作るのは苦労しました(笑)。でも素晴らしい結果を出してくれました。」

優勝に現地で立ち会った時はまだ21歳だった伊藤勝平さん。一般の海外渡航もままならなかった時代、若くしてメカニックとしてチームに参加し、世界を転戦していた。
「マン島で当日に伊藤さんのマシンのメカニック担当を命じられ、ゴールで伊藤さんを迎えるという最高の体験ができました。」

伊藤勝平さんと一緒にメカニックを担当していた永田選さん。
優勝の感動を再確認したくて、バイク雑誌の企画に参加して1984年に再びマン島へ渡った。
「宿舎に使っていた建物や、よく通ったバーが1963年の様子そのままで残っていて、その頃の記憶が昨日のことのように蘇りました。」

良き時代を過ごした仲間同士の思い出は、いくつ歳を重ねても色あせることはないようだ。


RM63の発展型・RK67。水冷2気筒12速ミッション。
1967年に伊藤さんが「第5回日本グランプリ」で優勝した時のマシン。2006年に行われた富士スピードウェイのイベントでは伊藤さん自らがこのマシンでデモ走行を行い会場を沸かせた。

 

モータースポーツとともに
駆け抜けた人生


マン島TT優勝後も、1967年には日本GPでも50ccクラスで優勝するなど実績を上げ、4輪のレースにも出場。現役を退いた後もレース監督、MFJ(日本モーターサイクルスポーツ協会)の技術委員も務め後進の指導にあたっていた。地元のバイクファンのイベントへのゲスト参加も、声がかかれば気さくに応じてくれる優しい人柄だった。
生涯浜松で暮らし、日本のモータースポーツ振興に尽力した伊藤さんは、2019年7月永眠された。しかし、浜松を愛し、モータースポーツを愛した伊藤さんの存在は、マン島TT日本人唯一の優勝者という偉業とともに永遠に語り継がれるだろう。
 

生き続け進化し続ける
技術者の魂


戦後の焼け野原だった浜松に芽吹いた「オートバイづくり」という産業は、廃材の利用から始まりわずか20年足らずで国産の車両で国際レースを戦うまでになった。そこで国内のみならず世界のオートバイメーカーと凌ぎを削ることで、海外へ市場を広げる足がかりを作った。そして、試行錯誤の中で生まれ、熟成した技術は現代のオートバイづくりの基礎となっている。例えばエンジンの水冷化やアルミフレームの採用など、今では当たり前の技術にも、半世紀前にサーキットで培われた技術が息づき、部品ひとつひとつに込められた挑戦や情熱は、進化した現代のオートバイの中にも受け継がれている。
そして、伊藤さんによるマン島TT日本人初優勝は、浜松で生まれたオートバイ産業が大きく世界に羽ばたくエポックメイキングな出来事だったと言えるだろう。それを支えた技術者の皆さんは、今も浜松にお住まいで、自らが開発に関わった車両の前ではタイムマシンで当時に戻ったかのようにお話をしていただけた。
貴重なお話をお聞かせくださった「研三会」の皆さんに、あらためて感謝したい。


2020年のMotoGPに参戦した「チームスズキ エクスター」のマシン。往年のGPマシンをリスペクトしたカラーリングが施されている。



※研三会の皆さんに声をかけ、お話を伺うメンバーを集めてくださった永田選さんの訃報に接し、謹んで哀悼の意を表します。