• 池谷七蔵

    発明家

    池谷七蔵(1855~1922)

    池谷七蔵は中区大工町で生まれ、明治18年(1885年)に名古屋の鎮台銃工廠に勤めますが、眼病のため退職。やがて光明村(現在の浜松市天竜区光明)で製材用具や農機具の製造を始め、その改良に努めました。明治31年(1898年)、機械好きの七蔵は、形染機械を発明しようと研究に没頭。資金不足は実業家宮本甚七の支援によリ解決し、明治32年(1899年)3月、ついに片面形糊付機が完成、特許を取得します。明治33年(1900年)1月に整形機を考案して特許を受けると、4月には甚七ら発起人による木綿中形株式会社(後に日本形染(株)と改称)を組織。七蔵は取締役兼技師長となリ、自動整形機を発明、さらに両面形糊付機、丸形染工機を発明して社運をますます盛んにさせました。

    捺染機の一部
    捺染機の一部
  • 河合小市

    楽器技術者 
    株式会社河合楽器製作所創業者

    河合小市(1886~1955)

    河合小市は、浜松上新町(現在の中区菅原町)に生まれ、小学校を卒業すると、日本楽器製造株式会社を設立した山葉寅楠の弟子となり、ピアノ製作に意欲を燃やしました。そして、明治36年(1903年)、小市が発明した「ピアノアクション」が大きなカとなって、日本初の純国産ピアノを完成。その後も多くの発明をした小市は「発明小市」と呼ばれ、後に技術部門の責任者となりましたが、大正15年(1926年)に会社を退社。昭和2年(1927年)に河合楽器研究所を設立しました。カワイピアノ第一号は「昭和型」と名づけられ、他社の国産ピアノの半額という値段で話題となりました。そして会社は順調に伸び、現在の株式会社河合楽器製作所として大きく成長していきました。

    アップライトピアノ「昭和型」
    アップライトピアノ「昭和型」
  • 川上嘉市

    ヤマハ株式会社中興の祖 
    浜松市名誉市民

    川上嘉市(1885~1964)

    川上嘉市は、浜松中学校(現在の浜松北高校)から一高、東大を出た秀才でした。明治42年(1909年).東京瓦斯株式会社(現在の住友電気工業(株))に入社し、翌年には工場長に就任しましたが、同年請われて住友伸銅所(後の(株)住友電線製造所)に勤務しました。大正15年(1926年)、日本楽器製造株式会社の経営は労働争議によって最悪の状況に直面。社長以下重役が総退陣すると、当時住友電線にいた嘉市が社長に迎えられ、会社の立直しが図られました。嘉市の献身的努力と経営合理化により、会社は着実な発展を続け、アコーディオンや電気楽器マグナオルガンの製作に成功するなど近代的な楽器メーカーへと脱皮。昭和21年(1946年)にはミシンテープルなど家具類にまで仕事を広げ.戦後の復興に向けて努力しました。

    日本楽器を訪れた川上嘉市(左より3人目)<br>昭和2年/本社ピアノ工場
    日本楽器を訪れた川上嘉市(左より3人目) 
    昭和2年/本社ピアノ工場
  • 鞍智逸平

    株式会社開明堂の創業者

    鞍智逸平(1844~1909)

    明治4年(1871年)の廃藩置県や国民教育法の施行以後、印刷物に対する需要が高まる中、鞍智逸平は印刷業の将来性を見越して明治7年(1874年)に家業の印版業から印刷業に転向するべく中区旅籠町で鞍智開明堂を創業しました。鞍智開明堂は、浜松県の御用出版所として印刷を一手に引き受け、浜松県が廃止される際には庁内で使われていた印刷機の払い下げを受け、これが本格的な印刷業の始まりとなります。特に明治11~12年(1878~79年)に印刷出版した翻訳医学書「七科約説」は、豪華な背皮の装丁など、その印刷製本技術と相まって、当時最高の邦文西洋医書として絶賛され、浜松市立中央図書館が所蔵する上下巻一組は浜松市指定文化財となっている。

    翻訳医学書「七科約説」
    翻訳医学書「七科約説」
  • 国分忠之助

    製紐機械の開発者 
    株式会社コクブンリミテッド創業者

    国分忠之助(1897~1970)

    山形県最上郡大蔵村に生まれた国分忠之助は、小学校卒業後、年季奉公で農機具の製作に従事した後、上京。電気工場に勤めますが、同郷の友人から紐を編む機械のことを聞き、製紐機に取り組む決意をしました。そして、真田紐を編む機械を作る磯野製作所に入社。その後、浜松市中区元目町の平山真田紐製造工場から製紐機械の注文を受け、派遣されたことが浜松に来るきっかけとなり、大正11年(1922年)、浜松市中区寺島町に国分鉄工所(現在の(株)コクブンリミテッド)の看板を掲げました。忠之助は直ちに従来の製紐機の改良に取リ組み、国分式製紐機の開発に成功。その後もゴム入製紐機をはじめ、靴紐、服装用紐、ワイヤーの編紐等多種多様にわたって製作できる機械を作リ上げ、業界から高い評価を受けました。

    製紐機
    製紐機
  • 小山みい

    織物実業家

    小山みい(1821~1892)

    長上郡本郷村(現在の南区都盛町)の寺田惣七の長女として生まれたみいは、若い頃から機織りが好きで、その技術も抜群でした。天保11年(1840年)、小山豊太郎と結婚。弘化2年(1845年)には上州館林から浜松に移封された井上氏の藩士の家で結城縞の技術を習得し、木綿織物の改良にカを注ぎました。その後みいは、工場を建設し、工女を雇い、数人の弟子を養成することにより、農家の副業にすぎなかった機織り仕事を専業化し、遠州織物の基盤を築きました。明治12年(1879年)には地元の同業者とともに「永隆社」という組合を設立し、遠州織物の普及発展に尽力しました。こうしたみいの功績を讃えて建てられた灯籠が、今も蒲神明宮(東区神立町)にあります。

    蒲神明宮拝殿前の灯籠
    蒲神明宮拝殿前の灯籠
  • 阪本久五郎

    エンシュウ株式会社二代目社長

    阪本久五郎(1882~1961)

    奈良県當麻村(現在の葛城市)で生まれた阪本久五郎は、大阪高等工業学校を卒業後、鉄道院を経て、大阪の木本鉄工株式会社に入社。数々の活躍によリ、会社の名も自らの名声も高めましたが、第一次世界大戦後退社。大正10年(1921年)、経営の危機にあった鈴政式織機株式会社に支配人として入社しました。久五郎は減資の断行とともに、製造方法や品質管理の大改革を行うなど、会社全体を再構築。また、昭和4年(1929年)には阪本式管替自働織機を完成。この発明によリ織物生産力は増大し、繊維業界は大きな技術革新を成し遂げました。昭和7年(1932年)、社長に就任後、軍からの要請により工作機械を製造。戦後もこの技術は受け継がれ、工作機械メーカーとしての現在のエンシュウ(株)の原点となりました。

    阪本式管替自動織機
    阪本式管替自動織機
  • 庄田和作

    庄田鉄工株式会社創業者

    庄田和作(1898~1972)

    石川県石川郡野々市町で生まれた庄田和作は、京都市立工業工習学校卒業後、鉄道院金沢工機部に勤めますが、浜松工場の拡充に伴い、浜松に転勤して来ました。そして大正12年(1923年)、10年間勤めた鉄道院を退職し、鉄工技術習得のため西遠鉄工に入社。ここで木工機械や刃物の知識を学び、昭和元年(1926年)に庄田鉄工を創業、木材加工機械製造に着手しました。以後、幾多の困難にも負けず研究・改良に努め、昭和3年(1928年)、遂に丸鋸機械に関する画期的改良と言われる「万能昇降傾斜盤」を開発。その後も多くの研究・開発を重ね、昭和43年(1968年)には世界初のrNC(数値制御)ルータ」を開発するなど、浜松の誇る木工機械メーカーとしての地歩を築きました。

    万能昇降傾斜盤
    万能昇降傾斜盤
  • 杉浦睦夫

    世界初の胃カメラ発明者

    杉浦睦夫(1918~1986)

    現在の東区中野町に生まれた杉浦睦夫は、高校卒業後、東京写真専門学校に入学し、写真・レンズなどの光学に関する勉強をしました。昭和13年(1938年)、オリンパス光学工業株式会社に入社し、写真機や顕微鏡などの研究開発をしていましたが、東京大学付属病院の宇治達郎外科医の要望で、胃がんや胃かいようの治療に役立てる胃カメラの開発に取り組むことになりました。胃の中に入れるゴム管や小型のライト、わずか5センチの距離から撮影できるレンズなど、苦労を重ねて研究を続けた結果、昭和25年(1950年).遂に胃カメラが完成し、胃の内部をフィルムに映し出すことに成功。そして改良を重ねた胃カメラによって医学はさらに進歩し、多くの人命を救うことにつながりました。

  • 鈴木俊三

    鈴木株式会社二代目社長

    鈴木俊三(1903~1977)

    鈴木俊三は浜松高等工業学校(現在の静岡大学工学部)を卒業後、技術者としての道を歩んでいましたが、昭和6年(1931年)、鈴木道雄の懇望により鈴木式織機株式会社に入社しました。以来、機械の設計企画から輸出業務に至るまで幅広く実務を担当、会社経営面でも次々と優れた手腕を発揮しました。その後も俊三は二輪業界進出の足掛かりとなった「パワーフリー号」を製作したり、我が国初の軽四輪「スズライト」を成功に導くなど、鈴木式織機株式会社が二輪・四輪車メーカーの鈴木自動車工業株式会社(現在のスズキ(株))へと飛躍を遂げる立役者となるとともに、浜松の主要産業である輸出用機械産業の発展に貢献しました。

    パワーフリー号/1952年
    パワーフリー号/1952年
  • 鈴木政次郎

    織機開発者

    鈴木政次郎(1876~1942)

    曳馬村野ロ(現在の中区八幡町)生まれの宮大工鈴木政次郎は、機械好きということもあり、足踏織機の修理を頼まれるかたわら、木製織機を木鉄混製織機に改良したり、足踏を手動力織機に,さらに発動機へと苦心しながら次々と開発を重ねました。そうして明治41年(1908年)頃、鈴政式鉄製力織機が完成。その織機は大変評判がよく、製造が業者の要望に応じきれない程でした。大正9年(1920年)には、県立浜松工業試験場長であった山本又六の助言のもと、全国の実業家たちの出資を得て鈴政式織機株式会社(現在のエンシュウ(株))を設立。ところが、大正の不況時に経営が悪化し、政次郎は退陣することになりますが、その後も旅館を経営しながら工場を設け、終生「鈴政式織機」を生み続けました。

    鈴政式織機/1921年
    鈴政式織機/1921年
  • 鈴木専平

    株式会社平安コーポレーション創業者

    鈴木専平(1907~1991)

    鈴木専平は現在の浜松市南区三新町に生まれ、幾つかの職業を経て、昭和14年(1939年)に平安鉄工所を設立し、木工機械生産に努力しました。昭和20年(1945年)8月、終戦を迎えると、専平は焦土と化した日本をいち早く復興させるには家の建築が第一と考え、木材を加工する木工機械の必要性を強く感じ、その製作に取り掛かる一方、繊維関係の小巾織機の製造、コール天勇毛機の開発にも携わり成功を収めました。昭和29年(1954年)には中区相生町に新工場を建設し、四軸ほぞ取り盤やルータマシン等を製作。さらに木工用刃物の需要増加を察知し、超硬合金チップによるチップソー及びチップカッターの製造にも着手。現在、世界的に活躍しているCNCルータの開発を手がけました。浜松の生んだ二大木工機械メーカーの一つとして会社を成長させました。

  • 鈴木道雄

    発明家 
    スズキ株式会社創業者

    鈴木道雄(1887~1982)

    鈴木道雄は、浜名郡芳川村(現在の南区鼠野町)で生まれ、小学校卒業後、大工のもとに奉公に出ますが、後に織機製作に転換した親方とともに織機の知識を身につけていきました。そして、明治42年(1909年)、道雄が21歳の時に鈴木式織機製作所の看板を揚げ、その後、「仔箱上下機」の発明を足掛かりに事業は拡大。大正9年(1920年)には鈴木式織機株式会社となりました。鈴木道雄は創業以来、100件を超える発明を考案し、現在のスズキ株式会社の礎を築きました。

    鈴木式織機
    鈴木式織機
  • 高橋菊松

    センタレス研削盤開発者 
    株式会社日進機械製作所創業者

    高橋菊松(1891~1964)

    高橋菊松は今の愛知県碧南市に生まれ、15歳の時、横須賀海軍工廠で技術者として働きながら機械の特徴や性能、構造などを勉強。その後、大阪の木本株式会社で阪本久五郎に出会い、共に鈴政織機株式会社に入社(後の遠州織機(株)。現エンシュウ(株))。製造部門を担当する傍ら、阪本久五郎のよき研究相手となりました。昭和6年(1931年)、念願の独立を果たし、日進織機製作所を設立。次々と新製品を世に送り、事業は順調に進展。その後、旋盤の製造を始めた菊松は国産のセンタレス研削盤を完成させました。昭和27年(1952年)には社名を(株)日進機械製作所と改め、センタレスグラインダーの専門メーカーへと転身。不況下にありながら、センタレス研削盤は各方面に広く納入され、事業の進展に大きく寄与しました。

    GR-18型/UG-150Ⅱ
    GR-18型/UG-150Ⅱ
  • 高柳健次郎

    世界初の全電子方式テレビジョン開発者 
    浜松市名誉市民

    高柳健次郎(1899~1990)

    浜名郡和田村(現在の東区安新町)に生まれた高柳健次郎は、大学を卒業後、浜松高等工業学校(現在の静岡大学工学部)の助教授となリ、テレビジョンの研究に取り組みました。多くの困難や失敗にも屈せず、研究に打ちこんだ結果、大正15年(1926年)、世界で初めてブラウン管の上に「イ」の字を映し出すことに成功。そして、昭和10年(1935年)には遂に全電子方式テレビジョンを完成させました。その後も現在のテレビ放送システムの基礎技術を確立したり、ホームビデオの世界的普及の基礎を築く一方で、学生の教育指導にも情熱を傾け、多くの優秀な技術者を世に送リ出しました。現在、NHK浜松放送局と浜松市立西部協働センター(浜松高等工業学校跡地)には、テレビが発祥の地として「イ」の字の記念碑が建てられています。

    試作第一号アイコノスコープによる最初の屋外人物像 左より堀井氏、高柳先生、松山氏(1935年・昭和10年)
    試作第一号アイコノスコープによる最初の屋外人物像 
    左より堀井氏、高柳先生、松山氏(1935年・昭和10年)
  • 高柳信蔵

    遠州織物商標登録、輸出の先駆者

    高柳信蔵(1879~1957)

    高柳信蔵は、敷智郡新所村(現在の湖西市)に生まれ、紺屋業を経て浜名郡吉津村(現在の湖西市)で織布業を営んでいました。大正9年(1920年)に第一次大戦後恐慌が始まると、織物業界は操業停止に追い込まれ、大正布などの輸出織物の生産は低落。そこで信蔵はこれにかわるものとして、四国・今治地方の柳条布を研究。そして、化学反応を利用した堅牢なナフトール染による青・赤・黄の染糸の広幅織物「縞三綾」の試作に成功。翌年には「永久印」として商標登録をしました。縞三綾は東南アジアを中心に注文が殺到したため、大正12年(1923年)、同業者に呼びかけ、遠州輸出綿織物工業組合「永久社」を設立。これによって遠州織物に国際商品という新しい道が切り開かれていきました。

  • 野沢卯之吉

    テイボー株式会社創業者

    野沢卯之吉(1837~1918)

    野沢卯之吉、源次郎父子は東京で貿易商野沢組を営んでいましたが、日本の製造業を振興させようと、製帽事業に取り組み、イギリスから機械を購入して東京の谷中初音町(現在の台東区)に初音合資会社を設立しました。その後、業務拡張のため.地方移転を考えていた折、たまたま浜松の素封家氣賀賀子治(2代目社長)が野沢組に勤めていたことから、浜松への誘致の話が進み、浜松の有力者たちの賛同を得て明治29年(1896年)、初音合資会社が浜松に移転。帝国製帽株式会社(現在のテイボー(株))として設立されました。当時、日本は羽織袴から洋服の時代に移りつつあリ、会社は順調に成長。さらに明治31年(1898年)外国人技師を招いてから技術が著しく発展し、時代の先端をいく会社となりました。

    帝国製帽株式会社
    帝国製帽株式会社
  • 福長浅雄

    日本初の旅客機の開発者

    福長浅雄(1893~1980)

    ライト兄弟が世界初の飛行に成功して以来、「自分も空を飛んでみたい」と飛行機に限りない憧れを持っていた福長浅雄(現在の南区大塚町生まれ)は、18歳の時、日本で初めて空を飛んだ徳川好敏大尉のもとで飛行機の組立や操縦技術を覚えようと夢中になりました。その後、千葉の飛行学校に入って基礎から勉強し直し、大正8年(1919年)、掛塚(現在の磐田市竜洋町)に福長飛行機研究所を設立、パイロットの養成と飛行機の製作にとりかかりました。大正10年(1921年)には浜松の有力者の支援を得て、株式会社福長飛行機製作所を設立し、そして翌年、ついに日本初の旅客機「天竜10号」が完成。この旅客機は、6人乗りの複葉機で胴体は軽金属性、エンジン以外はすべて手作りでした。

  • 堀内勝治郎

    氷佐藤製法・国産ロールフィルム第1号開発者

    堀内勝治郎(1884~1940)

    堀内勝治郎は浜名郡篠原村(現在の西区馬郡町)に生まれ、浜松中学校(現在の浜松北高校)卒業後、父円蔵が創業した氷糖商会の仕事に携わりました。氷糖商会はその後、合併・解散を経て、大正13年(1924年)、勝治郎により旭日氷糖株式会社として新設。浜松の氷砂糖生産は、大正末期から昭和初期にかけて日本一となり、勝治郎は「クリスタル法」など氷砂糖の製造方法で大きな功績を残しました。その一方、写真フィルムの開発にも力を入れ、大正14年(1925年)、旭日写真工業株式会社を設立。翌年には日本初の写真印画紙を発売し、昭和2年(1927年)には日本初のブロマイド紙その翌年には国産ロールフィルム第1号「菊フィルム」のベスト版など次々に新製品を発表。業界の最先端を走リ続けました。

    当時の広告
    当時の広告
  • 本田宗一郎

    本田技研工業株式会社創業者

    本田宗一郎(1906~1991)

    磐田郡光明村(現在の浜松市天竜区光明)に生まれた本田宗一郎は、幼い時から自動車や機械に強い憧れを持ち、16歳で東京湯島のアート商会で自動車修理技術を覚え、22歳の時にアート商会浜松支店を設立しました。そして昭和21年(1946年)、本田技術研究所を設立し、自転車に小型エンジンを取リ付けた「ポンポン」を開発。昭和23年(1948年)には本田技研工業株式会社を設立して、バイクエンジンの製造に着手し、翌年には本格的量産オートバイ「ドリーム号D型」を開発しました。その後、昭和36年(1961年)、マン島のツーリストトロフィーレースで優勝を果たしてオートバイ技術の頂上に立ち、世界のトップメーカーに成長させるとともに四輪車、汎用機製品等においても次々と新しい道を切り開いていきました。

  • 松島保平

    金平糖量産化の先駆者 
    三立製菓株式会社創業者

    松島保平(1883~1957)

    松島保平は引佐郡郡長であった松島十湖の三男として生まれ、13歳で棒屋中村商店の丁稚となり、後に番頭として活躍。明治22年(1889年)、浜松に棒屋商店氷糖部が設けられますが、技術者の脱退などで解散。大正2年(1913年)、新たに中村氷糖合資会社が設立されると保平は常務として手腕を奮い、会社を軌道に乗せるとともに浜松の氷糖業界の発展に尽くしました。その後、氷糖三社が一体化して股立された大日本氷糖株式会社の常務取締役となった保平は、工場長に命じ、氷糖蜜から金米糖を製造する機械を大正10年(1921年)に完成。同年10月に氷砂糖の生産と金米糖という菓子の生産を一体化させた三立製菓株式会社を創業し急速に成長させていきました。

    金平糖の掛物用平鍋
    金平糖の掛物用平鍋
  • 宮本甚七

    実業家

    宮本甚七(1863~1940)

    宮本甚七は浜名郡和地村(現在の中区和地町)で生まれました。甚七が4歳の時、父の寅蔵は中区田町で丸三呉服店を開業し成功。跡を継いだ甚七が、ますます盛んにしました。明治33年(1900年)4月、甚七は発明家池谷七蔵を助け、中方耕を機械化生産する近代的な会社、木綿中形株式会社(後に日本形染(株)と改称)を設立し社長に就任しました。また、甚七は綿織物の中国への輸出にもカを注ぎ、明治38年(1905年)合資会社永福公司を設立し、昭和4年(1929年)には遠州輸出綿織物工業組合「永久社」理事長として活躍しました。その後も機械化を進めるなど遠州織物の近代化に貢献。さらに後年は織物業界だけでなく、遠州地方の産業界のために寄与しました。

  • 山葉寅楠

    ヤマハ株式会社創業者

    山葉寅楠(1851~1916)

    紀州(現在の和歌山県)で生まれた山葉寅楠は、大阪に出て医療器械商に勤めましたが、浜松病院の要請で、医療器械修理のため浜松に来ることになりました。明治20年(1887年)、寅楠は初めて西洋のオルガンと出会い、その構造に非常に魅力を感じ、構造図を書き取ると自分でも作ることができると確信。翌年さっそく山葉風琴製造所を設立して、本格的にオルガン製作を始め、明治30年(1897年)には日本楽器製造株式会社(現在のヤマハ(株))を設立。3年後に国産第1号のピアノを完成させました。やがて明治37年(1904年)、セントルイスで開かれた米国大博覧会にオルガンとピアノを出品し、海外で初めて国産の楽器が賞を受賞。こうして、浜松地方の楽器産業の基盤が作られていきました。

    山葉寅楠翁像(レリーフ)
    山葉寅楠翁像(レリーフ)
  • 山本又六

    織機染色研究者 
    浜松市名誉市民

    山本又六(1881~1980)

    山本又六は高知県安芸郡土居村(現在の安芸市)に生まれ、東京高等工業学校附設工業教員養成所色染科を卒業後、石川、徳島の工業学校勤務を経て、大正4年(1915年)、静岡県工業試験場の主任技師として浜松に着任しました。又六は、遠州織物の振興には、産業の近代化、機械化、技術者の養成が大切であると考え、工業学校の設置に尽力。大正7年(1918年)に浜松工業学校(現在の浜松工業高校)が設立されると、初代校長として青少年の指導育成にあたりました。また、「広幅織機の使用の奨励」「品種増加と整理加工の改善」「検査の励行と信用の保持」の三大施策を提唱したり、染色技術の開発に力を注いだり、遠州織物の海外への輸出促進を図るなど、浜松の繊維染色産業の基盤づくりとその発展に貢献しました。

    展覧実習
    展覧実習